アメリカ人に初めて広島原爆の悲惨さを伝えた記事「ヒロシマ」が掲載されたニューヨーカー誌、実物を見せてもらい感動だった。1946年8月31日に発行と共に、即完売となった号だ。記事を書いたのは従軍記者としてダグラス・マッカーサー将軍(「バターンの人々」1942年)や、ジョン・F・ケネディ中尉(「サバイバル」1944年)のことを書いた著名なジャーナリストで、ピューリッツァー賞を受賞している小説家のジョン・ハーシーだ。
 

見せてくれたのは彼の孫で友人のキャノン・ハーシー。彼とは「ヒロシマ・ナガサキ ZERO PROJECT」 などで活動を共にしている。数年前には、NYで開催された「1 Future」に登壇させてもらった。

 

ニューヨーカー誌の「ヒロシマ」が掲載号は、執筆者がたった一人となった唯一の号となっている。広告ページを除いて、全てが彼の記事なのだ。インターネットのなかった時代に、とんでもない話題となったそうだ。ジョン・ハーシーが広島に入ったのは1946年春。原爆投下から1年も経たない頃だった。6人の被爆者の体験を描いた内容となっている。

終戦からわずか1年後の1946年8月31日に発行となる2日前から約2ヶ月間、ジョン・ハーシーと家族は、危険を恐れ、姿をくらませたそうだ。発行後、広島での体験を家族に一切語ることがなく、インタビューに答えることもほとんどなく生涯を閉じている。

 
キャノンによると、惨事を目の当たりにし、トラウマを抱えていたいではないかとのこと。従軍記者として日本軍と戦う様子を見つめてきたジョン・ハーシー。人類史上初めて使用された原爆投下後、間もなく広島にやって来て、何を感じたのだろうか。「ヒロシマ」の掲載されたニューヨーカー誌をめくりながら、彼の広島での体験を少しでも想像しようと思いを巡らせた。
 
「アメリカ人のそれまでの日本人への見方を確実に変えたと思う。それまで日本人は人間として見られていなかったんだ。」
 
とキャノン。アルベルト・アインシュタインは、「ヒロシマ」の掲載されたニューヨーカー誌を科学者仲間に配ろうと1,000部買ったそうだ。アインシュタインは、その後、二度と核兵器が使われないようにと、世界連邦運動を提唱している。


 
広島への原爆投下から70年が経過した、2016年。BBCニュースで以下のように書いている。
 
「ハーシー氏の記事の内容と、アインシュタイン氏それを公然と賛同したことは、非常に大きな反響を呼んだ。」
 
「たった1年前には憎むべき仇敵だった相手に、生の声で語らせる。これは先鋭的なジャーナリズムだった。」
 
「感想を寄せた読者のほとんどが記事を称賛し、自分たちとどこも変わらない市井の人々、事務員や母親、医師や牧師がそのような恐怖を味わったとは気の毒で恐ろしいことだ、と書き送った。」
 
 
来年は、広島、長崎原爆投下から75年だ。キャノンと芋焼酎を片手に夜更けまで語り合ったニューヨークの夜だった。
 

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