先日、有り難いことに北方領土、色丹島の元島民、得能宏さん(89歳)にインタビューすることができました。根室市北方領土資料館の2階の展示で、映画『ジョバンニの島』のモデルとなった色丹島の元島民として紹介されており、ぜひともお会いしたいと願った方です。ふるさとを失うことが、どういうことなのか?色々とお聞きました。知られざる日本の歴史の一面に、ただただ驚き、もっと知りたいとずっと前のめりでお話を伺いました。少しだけ、かいつまんで書きます。

当時11歳で小学校5年生だった得能さんが暮らす色丹島にソ連軍がやって来たのは1945年9月1日のことです。小学校で授業を受けていたところに銃を持った5,6人のソ連兵が入って来たそうです(島全体では600から700人)。皆ガクガクと体を震わせ、死ぬかと思ったそうです。ソ連兵に家を奪われた得能さんは敷地内の馬小屋で暮らし始めました。

小学校から家に帰る途中の道にはソ連兵がびっちり。自分の家も、周りの家もすべて略奪を受け、荒らされてたといいます。しかし、驚くべきことに翌日以後もいつも通りに学校に通ったそうです。家が次々とソ連兵に奪われるなか、学校の先生がなんとしても学校だけは子どもたちのために残したいと、ソ連兵と喧嘩して守ってくれたそうです。

やがてソ連兵が家族を呼び寄せて島に暮らし始めると、ソ連の子どもたちも学校に通いたい。しかし教室が1つしかないので、1つの教室を半分に分け、なんと日本人とロシア人40人ずつが同じ教室で学んだのだと。

子どもたちが毎日同じ教室に入れたらどうなるのか?自分の家を奪ったやつが同じ教室にいるし、帰り道も一緒。悔しくて、悔しくて最初は喧嘩にしたが、次第に仲良くなった。男の子は浜辺で相撲をとったり、女の子たちはたんぽぽを一緒にとったりして遊んだそうです。

そうやって特殊な環境で暮らすうちに、初恋の相手となるターニャという女の子と出会い、心を通わせました。約3年、色丹島で暮らし続けていましたが、日本人は全員強制送還されることとなり、着の身着のままで樺太経由で根室へとたどり着きました。ターニャとの別れを意味していました。

ターニャとの出会いが、その後、島で友情を育む大きな原点になり、得能さんには血の繋がっていない息子が色丹島に出来たそうです。彼が、得能さんのお墓の掃除を今もしてくれているそうです。

北方領土の返還についてのお考えを聞くと、世界に類のない島を作りたい。今住んでいるロシア人を追い出すのではなく、一緒に暮らせる文化を作りたいとおっしゃいました。共存の道があるといいものです。

<ビザなし30年 第1陣の記憶>色丹島出身・得能宏さん 「領土返還につながらないと決めつけられるでしょうか」:北海道新聞(2022年5月25日)

「島が日本に返ってきたときにロシア人は帰れ、ということにはなりません。一緒に暮らす。特殊な混住です。世界で例のない地域になる。理想、きれいごとかもしれないが、僕はそう思っています。今住んでいるロシア人を追い出す気持ちはさらさらありません」

 「人と人とのつながりが国を動かします。それがないと国なんか動かせません。そのためにもビザなし交流をなくさないでほしい。絶対になくしてはいけないと思います」

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その距離わずか1.85km。ロシアが実効支配している北方領土のうち、一番近い貝殻島と、納沙布岬の中間線までの距離です。これを越えるとロシア側に拿捕されます。

至近距離にロシアが存在するというそのリアリティーを感じに根室を旅しましたが、飛行機からは国後島、日本の本土最東端である納沙布岬からは、本当に目の前に歯舞群島が見えるというこの距離は驚きでした。2島返還の目前まで政治が動いた時期がありましたが、実現せずに今も占領が続いているわけです。

日本は8月15日に終戦したことになっていますが、対日参戦したソ連は、8月24日以後、千島列島最北端から南下し、北方領土に侵攻。9月4日までに歯舞群島まで占領しています。9月2日の第二次世界大戦集結以後も続いていたことになります。ここからだとロシアのウクライナ侵略のことが近く感じられます。足元日本の北方領土問題のことを、もっと知り、学ばねければならないと強く感じております。


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