先日、お知り合いになった佐久総合病院 色平哲郎先生より転送許可をいただきましたので、シェアします。スマナ・バルア氏(医師)のすばらしい講演記録です。
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第25回地域と教育の会全国研究集会
2000年8月26日(土) 兵庫県但馬
記念講演 「いのちはレントゲンには写らない」
スマナ・バルア氏(医師)
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アイデンティティーとは?
私達は足元、つまり、自分のアイデンティティーを忘れています。
なぜ、足元を忘れてしまっているのでしょう?
祖父母が苦労して私の父母を育て、父母も又苦労して私を育てました。
そうして、私は大学生になったのです。
便利な世界にいて、自分の根っこについて考えてみる事を忘れてしまいました。
もう一度、地域の中で生きていくために、足元を見つめ直すべきだ、と訴えたい。
今日は、最初にアイデンティティーについてお話します。
「わたしはだれなのか?
わたしはどこからきたのか?
どのようにしてここへきたのか?
ここからどこへいくのか?
どのようにしてそこへいくのか?
そこでなににとりくむのか?」
私達はこういった人生におけるもっとも基本的な事柄を忘れているのです。
地域やムラがだんだんと街になって、関係性が希薄になり、
自分たちの足元を見直す事を軽んずるようになりました。
学生達には、このアイデンティティーの詩を書き写していただきます。
そして、くりかえしくりかえし考えてもらうのです。
自分の中に自分の声がある。
その声を聞くチャンスが、なかなか今の若者には無いようです。
しかし、自分の根っこ、アイデンティティーを見つめ直すべきだ、と私は学生達に語っ
ています。
私自身のアイデンティティーについてお話します。
私はバングラデシュの貧しい農村に生まれました。
田んぼの中にある、この写真の建物が私の小学校です。
12歳だったとき、近所のお母さんがお産のときに亡くなりました。
私の母も私の姉も泣いていました。
それを見て、「女性がお産で死ぬなんて、とても悲しい事だ。
よし、将来必ず医者になって、お産で女性が死ぬ事のないように村人のために働こう。
」
と心に決めました。
私は今、日本の大学の医学部で教えています。
医学生達は、高校生の時、成績がよかった、勉強がよくできた、ということで医学部を
選んでいる。
なんのためになにをしているのか。
アイデンティティーについて考える習慣がないのかもしれません。
仏教者の叔父から教えられた事
私の叔父は、仏教のお坊さんです。
一族の23代目として、全世界仏教者会議を召集し、世界宗教者平和会議の創設理事を
務めました。
京都の国際会議場にもよく来ました。
今の天皇陛下の結婚式に招待を受けたこともありました。
この叔父は私にとても厳しく教えて下さいました。
教えの一つにこんなことがあります。
「活動をお手伝いしたいのですが、どうしたらいいですか?」と尋ねると、
叔父は、「自分のできる所から、始めなさい。」と言ったのです。
自分には何ができるのか?
私は、中学生でした。
「自分の志、心の問題として考えてみなさい。」と、課題を投げかけられました。
叔父さんは、毎朝、子どもたちに声をかけ、世話をしていました。
家族のないこの子どもたちの何人かは皮膚病がひどくなっていて、ひどいにおいがして
、誰も近くによりたがらない状態でした。
しばらくして、叔父さんが私にヒントをくれました。
「自分の体を洗うくらい丁寧に、この3人の子どもの体を洗ってあげなさい。
それは、自分でできる仕事だろう。」
1週間毎日体を洗ってあげていると、この子どもたちは、すっかり私になついて、
毎朝私を待っていてくれるようになりました。
私は、心の満足を見つける事ができました。
私のはじめてのボランティア体験は、心の満足から始まりました。
日本では外国人労働者になってしまった
私の兄は、その頃日本に留学中で、京都工芸繊維大学の大学院生でした。
兄に「医者になりたい」と言いました。
そして少しずつ日本語を覚えて、日本にやって来ました。
日本に来たら、医学部での勉強は専門、専門になってしまっていて、
電気も無いようなバングラデシュの私の村では、使えないということに気づきました。
日本の医療技術は、日本の今の経済状態だからこれでよいのだが、
アジアの他の国でそのままでは使えない、と大変残念だったのですが感じました。
それで、他のアジアの国で勉強したほうがよい、と考えるようになりました。
日本では医学部に行かずに、「外国人労働者」になりました。
ほかのことではパイオニア(先駆者)になれなかった私ですが、外国人労働者のパイオ
ニアになることができました。
長野県富士見高原のゴルフ場で働いたり、中央高速道の小淵沢インター建設工事で働い
たりして学費をためました。
牧場で働く事もありました。
働きながら、自分の足元を見る努力をしました。
この頃の私は、このスライドのようにスリムでハンサムでしたよ。
稲刈りの仕事の後で、仲間と一緒にいるところです。
畑でジャガイモを作って、たくさんとれたので、友人に
「人間の先生になるよりも、ジャガイモの先生になったほうがいいよ。」と言われたこ
と
もありました。
でも私はあきらめませんでした。
自分をさがす旅が始まりました。
私は20歳でした。
人々の中に入って、自分の道を見い出したいものだと考えました。
医者になる以前に、患者さんとして受診する人々の気持ちや生活のありようを、理解し
ておきたかったのです。
トラックの運転助手をしているとき、東京から下関まで11トン・トラックに乗って何
度か往復しました。
この辺り(但馬)も通りましたので、懐かしく思い出します。
あるとき、東京で魚を食べたとき、とても美味しいと思いました。
そこで、友達に頼んで友達の親戚の北海道の漁師さんの船に乗せてもらうことにしました。
2月半ばのことでした。
1年で一番寒いときに人々はどの様に魚を獲っているのか、体験させていただきたかったのです。
とても楽しい4日間になりました。
人々の生き方から、いろいろ勉強させていただきました。
「人々の中へ」
これは、中国の偉大な教育者、晏陽初(1893-1990)の詩です。
「人々の中へ行き、人々と共に住み、人々を愛し、人々から学びなさい。
人々が知っていることから始め、人々が持っているものの上に築きなさい。
しかし、本当にすぐれた指導者が仕事をした時は、その仕事が完成したとき、人々はこう言うでしょう。
我々が、これをやったのだと。」
教育者の哲学だと思います。
学生が自分たち自身で努力しているのだ、と感じる位、教師は表には出ずに後ろからサポートするのです。
渋谷先生が研究された晏陽初の事蹟を通して、色平(いろひら)先生が渋谷先生方と出会った、と伺っております。
何かのご縁を感じます。
レイテ島で
フィリピンのレイテ島では助産士として、10年間村々を歩いて総計215人の赤ちゃ
んを取り上げました。
日本では、「地域おこし」「村おこし」などと、美しい言葉を使っていますね。
しかし、村づくりに取り組む事はそうそう簡単な事ではありません。
美しい言葉の中にどれだけ自分たちの志、心根が入っているか、が重要だと思います。
レイテ島の学校では、従来は、卒業して医者や看護婦になるとみんなアメリカ合衆国に
行ってしまいました。
あるいは島にではなく、都会の大病院で働くことを好む専門家が多かったのです。フィリピンの教育者たちはこのような「頭脳流出」といわれる事態に対し、何とか取り組まねばならないと考え、
私の学んだ特殊な医学校を設立しました。
村人の推薦で、彼らの信頼を受けた学生が、奨学金をもらって勉強します。
彼や彼女が学校で学んだ知識は、それぞれの村に持って帰って実践します。
学校と地域とを行ったり来たり往復している間に、学生と村人との間に心のつながりができる。
このような社会契約を教育構想として、特徴ある医学校が設立されました。
従来のように、看護の教育と医学の教育とが別個にではなく、直線的に配列されています。
助産士から医師へ
最初に助産士の勉強を終え、その後看護士、保健士、医師へと階段状に勉強していきます。
それぞれのコースの間には、村で実際の活動に取り組みます。
日本の医学部では、医学を教科書で教えますね。
入学して、教科書の内容を先に覚えるのです。
次に、医療機器の使い方を覚えるようです。
そこでは、人間と人間が出会うことが、後回しにされています。
レイテでは、小グループで勉強して、村の患者さんについてさまざまな角度から話し合
いました。
討論しながら勉強するのです。
教科書に書いていない事柄についても、村人の生活から直接学んできて、互いに質問を出し合い、
経験を交換しながら、学んでいくのでした。
お水の大切さを教える
村の若いお母さん方に最初に教えるのは、お水のことです。
きれいな飲み水はどこにあり、どのように貯蔵して、どのように飲むのかということで
す。
赤ちゃんに予防注射をしたかどうかだけではなく、ここでは(医療者として)薬の処方
や注射をするだけでなく、
人間全体を見渡した教育を目指しています。
健康教育では、お水の問題が中心になります。
きれいな飲み水を大切にする事によって、途上国での病気はその70%が予防可能になります。
しかしこの事の重要性について、なかなか大学の医学部では理解されず、取り組めてお
りません。
村々を回るときには、家族全員のカルテを持って歩きます。
又、赤ちゃんを取り上げるために、はさみなどの医療機器も持ち歩きます。
川が多く、橋がかかっていないこのような場所では、このスライドのようにいかだで渡ります。
戦争を知らない若者達
日本の医学生達を、たくさん受け取りました。
レイテ島は、戦争がひどかった場所です。
戦争が悪かったとか、誰が悪かったということより、日本の若者はまず事実を知るべきです。
多くの日本の若者はレイテ島がどこにあるかさえ知らないのです。
あるとき東大の大学院生がレイテ島はどこにあるかと質問するので、
冗談で、佐渡ヶ島のちょっと北のほうだ、と答えたことがありました。
すると、彼は真顔で地図を見て、そんな島は載っていないと言うのです。
まったく困ったことです。
レイテ島の若者と日本の大学生たちとが出会う場を作ろう、と考えました。
戦争は戦争であったとしても、その事実を知るためにこそ日本の学生達をお引き受けい
ただき、
ホームステイさせていただく活動にも取り組みました。
電気も水道もない村で人々がどのように生きているのか。
アジアの兄弟たちがどんな水を飲んで、どんな食事をして生きているのか、
と想像することができることこそ、日本の若者にとって大事な勉強の機会になるのです。
村の教会を借りて、月に一回の巡回診療に取り組んだ時の写真です。
毎月のように子どもたちを診察しますが、この機会をとらえて若いお母さん方と話をする事ができます。
お水の大切さ、などの基本的なことがらをお伝えします。
井戸のきちんとした管理の重要性、水を沸かしてから飲む事、外から遊んで帰ったら、
手を洗う事などなどです。
病院などのない地域ですので、このように小学校の一室を借りて診察する事もありました。
この道路は、当時日本軍が通った所です。
今はすっかり道が良くなっていますが、こんな道路を4キロぐらい行ったところから
牛車に乗ってやってきたお母さんが2時間後に元気な男の子を出産しました。
自動車などは島にありません。
そういう地域で、夜中であっても赤ちゃんを取上げるために往診するのです。
医学生だった色平先生と一緒に、このような村を歩き回った事がありました。
色平先生は、「僕もこういうところで仕事をしたい。又、暮らしてみたい」と言いました。そして今、二人で同じ仕事をつづけています。
住民から見た日本
初めて日本の学生達を受け取るとき、村の一人のリーダーが
「自分が生きている間に、日本人の顔を二度と見たくない」と言いました。
日本軍に目の前で自分の父親が殺された、との事でした。
私はチャレンジだと考えました。
何度も何度もこのリーダーのご自宅に足を運び、説得にあたりました。
そして、「是非、一人学生を受け取ってください。」と頼みました。
村でのホームステイの最終日、このおじいさんは、別れ際に泣き出して、
「戦争は戦争でしかたない。これからは、いい友達になろう。」と声をかけてくれまし
た
。人と人と、街と街と、地域と地域、何をどのように、つなげていくのか。
人間と人間の心をつないでいく作業は私にとって、とても楽しい大切な思い出になりました。
医学の教科書には書いていない重要な事柄です。
人間として人間の世話をするために
バングラデシュは、洪水でとてもひどい状態になります。
水が少なすぎても、多すぎても大きな問題を起こしているのです。
市内の裏街のほうに行くと、とても貧乏な人々がいます。
皆さん、ご存知と思いますが、発展途上国では、金持ちは考えられないほどの金持ちで
す。
とても隔差の大きな社会です。
このスライドのような場所、スラムに住む子どもたちの公衆衛生状態や教育はどうなっているのでしょう?
皆さん、想像の翼を伸ばしてください。
バングラデシュの医学部で教えていたとき、「村の中からこそ学ぶべきだ!」とアピー
ルしました。
地域の中からこそ学ぶべきだ、と申し上げたのです。
「人間として人間の世話をする」体験は、学生にとってとても大事な思い出になったようです。
若いお母さん方には、家族計画や健康な子育ての方法を教えました。
村おこしには、地域での健康づくり活動が含まれています。
村々にボランティアを養成して、子どもたちのために村を歩き回りました。
医学部で教えながら、地域活動している村人と協力して10本の井戸を掘りました。
きれいなお水の出るところに、人々はみんな集まってきました。
日本でも昔はそうだったかもしれませんね。
おばあさんの教え
私のおばあさんが、「朝は、早く起きなさい。」と教えてくれました。
私が起きるようになったら、「兄弟たちを起こしてあげる事が、次に大切なことですよ
。」と教えてくれました。
私はそのときには、この教えが十分に、理解できていませんでした。
この教えは、自分がなにかできるようになったら、それを後輩たちに伝えることが次の
仕事になる、という意味です。
おばあさんは私に、「教育」という一生の仕事を与えてくれたのでした。
ぶつかってみないとわからない
ネパールで、あなたの家から診療所まではどのくらい遠いですか、と聞くと、
「すぐ近くです」と言うのですが、実は歩いて1時間かかるという意味であったりしま
す
。このスライドはネパールの川です。
誰かが頭を洗い、誰かが洗濯をしていますね。
飲み水をくみに来ている人もいます。
もしかすると上流の方では、おしっこをしている人がいるかも知れないのです。
お水は大切です。
村の人々に、「お水は沸かしてから飲むようにしてください。」と、
くりかえしくりかえし根気強く申し上げました。
健康に関する諸問題が、かなりの程度予防できるからです。
バングラデシュの私の村でもそうだったのですが、人間は困難にぶつからないと気づか
ないものです。
村のお母さんたちが私に質問しました。
「バブが小さい時、川の水を飲んでいて元気に大きくなったというのに、
なぜ私の子どもには井戸の水を飲ませたほうがよい、と言うのですか?」と。
あるとき、大きな台風がきて洪水になり、周りの村の子どもたちが下痢になったのに、
井戸のある村の子どもたちは下痢をしなかったという事がありました。
お母さん方はその後でやっと、保健活動の重要性を理解してくれました。
数年前、神戸市の高校の先生方に講演した事がありました。
アジア各国の子どもたちの教育について、そしてきれいな飲み水の重要さについて話し
てください、との依頼でした。
私は、お水は大切です、と講演の中で何回か申し上げたのですが、
後ろの方の席の先生が終了後立ちあがって意見をおっしゃいました。
「日本人は馬鹿なものではありません。
一度言えばわかりますよ。お水は大切です。」
と、怒った様子でおっしゃいました。
私は困ってしまいました。
1年ほどして、神戸で大地震があって、その3週間後くらい後で私の自宅に電話があり
ました。
あのときの先生からでした。
「バブさん、実は今日は謝りの電話です。
私は去年のバブさんの講演会の後、意見を言わせてもらった者です。
覚えていらっしゃいますか?
今日はバブさんに謝りたい。
私はこれまで毎日お風呂に入っていたのですが、あの地震の後、今日までの三週間、お風呂に入れずにいます。
今、お水が大切である事が本当に理解できました。」
とのお話でした。
私はびっくりして、「先生、お体は大丈夫でしたか?ご家族はいかがでしたか?」
とお尋ねしました。
つまり、人間はなにか困難にぶつからないと、気づかないものだという教えです。
だからこそ、学生達には、「若いうちにこそ、できる限りたくさんの壁にぶつかっておきなさい。」
と強く申し上げています。
いのちはレントゲンには写らない
中年の男性が患者さんとして診療所へ来ました。
日本のお医者さんたちは「どうしたんですか?」と聞いて、
「頭が痛い」と言うと、「はい、レントゲンを撮ってきて…、異常なし。」
これで終わりです。
おじさんは、奥さんとけんかをしたのかもしれないし、酒を飲みすぎているのかもしれ
ない。
急に仕事を首になったのかもしれないし、また別の悩みをかかえておいでになるのかもしれないのです。
でも、このようなできごとは、レントゲンのフィルムには写らないのです。
患者さんと医師の対話の中でこそ診断が可能です。
ですから、学生達には、さまざまな壁にぶつかりなさい、たくさんの人間に出会いなさい、と教えています。
人間として、人間の世話をする取り組みに意味を見出して欲しいのです。
ベトナムの農村で
ベトナムの農村で、地雷のために左足がだめになった人にお会いしました。
彼は木で自分の義足を作って農作業をしています。
一緒にいた奥さんと娘さんは爆発で亡くなりました。
この人は、戦争中の次の爆発では右目をやられました。
そしてさらに、ハンセン病を発病して両手の指先がなくなってしまいました。
彼はこの状態で今も農業を続けています。
彼は、自分を見つめなおす事に取り組んでいます。
米を作って、自分と息子の分の食料をとり、残りのすべてを村の人々に分かち合いなが
ら暮らしています。
彼は、こう私に話してくれました。
「私は、もし家内と一緒に死んでいたら、なんにもならなかった。
しかし、私は、今生きていることで満足です。」
彼は地域の人と共に生きていく事の重要性を、私に教えてくれました。
自らのアイデンティティーを見つめ直す事を教えてくれたのです。
現場に行くと、いろいろな人と出会うことがとても勉強になります。
地域の中には、たくさんの教えや財産があるのです。
日本の小学校で
日本の小学校でお話をしたときの事です。
私はまず生徒たちに
「今日のお昼ごはんのおべんとうを半分食べて、おいしくなかったので捨てた人はいます
か?」
と尋ねて、手を挙げてもらいました。
そして、アジアの貧しい国で子どもたちが食べ物を分け合って、食べている様子を写真で見せました。
「あなた達の同じアジアの兄弟たちですよ。いただいたものは大切にして食べましょう。」
「次の質問ですよ。
鉛筆を3本だけ持っている人はいますか?
いない。
それでは鉛筆を5本以上持っている人は?
全員ですね。
私が子どもの頃、鉛筆を買うことはできませんでした。
母が竹のペンを削り、バナナの皮に書いて勉強したのです。
こうして字を覚えました。」
そして、スライドでカンボジアの子どもが1本の鉛筆を持って、
有難うございました、と手を合わせている写真をお見せしました。
すると後ろでこの話を聞いていたお母さんが手を挙げて質問しました。
「先生、カンボジアの子どもたちに鉛筆を送りましょうか?」
このお母さんは、残念ながら経験した事がないのです。
ぶつかった事がないのです。
従来の日本の援助のやり方に似ています。
大切な事は、自分の子どもたちに鉛筆を大事に使うことを教える事なのです。
子どもたちのために
私がいた頃87年のこと、レイテ島に大きな台風が来ました。
私は災害救援組織を作りました。
父母を亡くし、途方にくれている子どもたちのために、安全な場所を見つけようと取り
組みました。
安全な飲み水や食料を確保するために働きました。
このネパールの山の中の子どもたちは、学校に行く時間なのに学校に行っていませんで
した。
なぜ、教育の機会が与えられないのでしょうか。
彼らの将来のことを考えねばなりません。
教育の光が不足している所には、光を届けるための努力を傾けるべきです。
「我々は、多くの過ちや間違いを犯している。
しかし、最大の過ちは、子どもたちを見捨てている事だ。その生命の泉を無視している事だ。
多くの必要な事は、待つ事ができる。
しかし、この子どもたちには、それができない。
今、彼の骨が作られ、血が作られ、感覚が育っているのだ。
この子に対して私達は、また明日ね、と言うことはできない。
この子の名は、今日なのだ。」
あいさつからはじめよう
あるロータリークラブで、講演したとき、
「自分のできる事から始めてください。」と申し上げました。
そして、「おはようございますと、声をかけられたことがありますか?
近所の子供たちに毎日挨拶していますか?」とお尋ねました。
ある社長さんは、「知り合いの子にしか、挨拶していません」と、お答えになりました
。
「では、社長さん、明日から毎朝、子どもたちに挨拶しましょう。」と、私は申し上げました。
私の母はあるとき、「目の前の人があなたの鏡なのだ。」と教えてくれました。
私は25年後の日本の国のことをとても心配しています。
あと25年経ったら、日本社会はどうなっているか。
25年経って、こういう国に暮らしていたい、と具体的にお考えになってください。
今、自分たちのできる事は、子どもたちに挨拶をする事かもしれない、と申し上げたい
。
最初は周囲の人々は、このおじさんはどうしちゃったのかなと疑問に思うかもしれませ
ん。しかし、奥さんと一緒にスーパーに行ったとき、知らない家の子どもが、
「おじさん、こんにちは。」と声をかけてくれるかもしれないのです。
その子のお父さんが、「どうしてあのおじさんを知っているの?」と子どもに尋ねたとき、
「あのおじさんは毎朝、おはようと声をかけてくれるんだよ。」と答えることになるでしょう。
ですから、相手が、おはようと私に答えてくれるかを心配する前に、
25年後、こんな国に私は住みたいものだ、という将来に向けた理想を持ち、
現在において、その実現のための努力に取り組む事こそが、今大切なのではないでしょうか。