「世界絶対平和」を願い、とある日本人が世界65ヶ国のコインとローマ法王からいただいた金貨を溶け合わせて「国を越え宗教の違いを越えて、平和を願う世界の人々のコインを入れた平和の鐘を造りたい」と「平和の鐘」を日本が国連に加盟する前の1954年に国連に贈った話を去年聴いて、心から感動した。すぐさまこのことを情報発信したり、いくつかのメールを関係者に送ったら、しばらくしてこの国連「平和の鐘」を国連に贈ることを発案し、私財を投げ打って建立に尽力された中川千代治さんのご長男、中川鹿太郎さんと六女の高瀬聖子さんなどと知り合うことができ、去年宇和島市のご自宅を訪問してきた。

第二次世界大戦終戦から70年、そして国連創立からも70年の節目となる今年、鹿太郎さん、聖子さんたちが国連「平和の鐘」が元の場所、日本庭園に移設されることになったため、記念式典に招かれ参加されることをご連絡いただいた。この機会に国連「平和の鐘」について書いてみようと思う。

中川鹿太郎さんのご自宅で話を聞く筆者
中川鹿太郎さんのご自宅で話を聞く筆者

激戦地ビルマで自分の部隊が全滅。世界絶対平和を強く願う。

「世界絶対平和」は元日本軍の将校で、中国北部とビルマ(ミャンマー)で戦った中川千代治さんの痛切なる願いだ。2度目の派兵となったビルマでは自分の任された兵士が全滅となり、自分も右足の太腿を撃たれ重症を負い気絶した。偶然にも鐘楼の下で気絶したおり「鐘と縁がある」と感じていたそうだ。

負傷したため1943年には日本に戻り、終戦を日本で迎えた。出身地宇和島に戻ると、中川家の菩提寺、泰平寺の鐘が戦争に取られていたことを知り、1950年、自分が戦場に携えた軍刀と、戦後世界を回って集めた26ヶ国のコインを溶かして平和を祈り、「世界絶対平和万歳の鐘」を奉納した。

「世界絶対平和」への願いを胸に国連総会へ

その後、ある想いを携えて1951年6月、当時日本国連協会理事となっていた中川千代治さんは英語も出来ないにも関わらず、第6回パリ国連総会に自費で参加する。

「世界の平和を願う人々からコインを貰い、その平和への祈りを一つにした鐘を国連に寄贈し、その鐘を世界の平和のために鳴らして欲しい」と訴えるためだった。その時、泰平寺に贈った鐘の音色をテープで流すことを忘れなかった。

そうしてパリで総会参加国65ヶ国の代表者から各国のコインを受け取り、イタリアではヴァチカン宮殿に寄り、ローマ法皇ピオ12世に拝謁。キリスト及びマリア像の金貨を受け取っている。

フランクフルトのホテルで出会った当時毎日新聞社ヨーロッパ移動特派員だった渡辺善一郎さんは、まくし立てるように熱く語る中川千代治さんのことを最初は煙に巻かれたように感じたが、応援する気持ちに次第に変わっていったと当時を振り返っている。

第二次大戦で日本は原爆の洗礼を受けた。この恐ろしい犠牲と悲劇は、叡智あるはずの人類にとって最大の汚点だ。なぜ戦争を繰り返さねばならないのか、それはひいては人間の心の問題だ。心が間違っているから戦争が起きる。自分は世界人類を大戦争の危機から救うため人間の心に響く実像的なものを造りたい。それは「平和の鐘」である。この鐘を国連本部に寄付して高らかに響かせることにより世界平和への想いを呼びかけたい。鐘の音は人の心に平安な気持ちを呼び起こす、というのが私の信念だ

この出会いで、ベルリンに連れて行って欲しいと懇願された渡辺さんは、熱意に押されてベルリンを案内することになる。ベルリンに向かう飛行機の中でもスチュワーデスに用意していた英文の「平和の鐘」の趣意書を見せ、10セントコインを受け取るなど、中川さんはどこでも「平和の鐘」への協力を訴えていたという。東ベルリンでは警備していたソ連将校からカペイカコインを受け取った。

こうした中川さんの平和への強い願いは1952年の国連社会経済理事会で受け入れられ、ニューヨークの国連本部完成の記念に「世界絶対平和万歳」を祈念した国連「平和の鐘」がこうして贈られることとなった。当時国連に加盟できていない野蛮な国と見られていた日本の一国民の考えが受け入れられたことは奇跡的なことだった。

世界中の想いがつながり、国連「平和の鐘」が完成!

日本国内でも多くが中川さんの熱い想いに動かされた。四国中の小中学校などからもコインが集まり、鐘の鋳造は、高松市の名門多田鋳造所が、そして鐘楼は宇和島市の宮大工、大下林平さんがそれぞれ無償で引き受けることになる。

1953年12月、完成した国連「平和の鐘」は神奈川県県庁正門前で、元梨本宮妃殿下ご臨席のもと壮行会が荘厳裡に行われ、ニューヨーク国連本部に向けて出港した。そして、1954年6月、澤田廉三国連大使、ベンジャミン・コーエン国連事務局次長立会いのもと、平和の鐘の贈呈式が執り行われたのだった。私財を使い果たしていた中川さんはこの式典には参加ができなかった。

中川千代治さんの願いを語り次ぐために「国連平和の鐘を守る会」が発足

高瀬聖子さんと中川鹿太郎さん。2015年5月。NY国連平和の鐘にて。
高瀬聖子さんと中川鹿太郎さん。2015年5月。NY国連平和の鐘にて。

国連「平和の鐘」は毎年2回、春分の日と9月21日のピースデーに国連事務総長が打ち鳴らすことが恒例になっている。

この5月の移設記念式典でパン国連事務総長は

「世界のあまりにも多くの人々が、銃声や爆音ばかりを聞いている。この鐘が再びここに戻ったように、世界の町や村にも平和の鐘を再建しなければならない」

と語り、中川鹿太郎さんは、

「鐘が元の場所に戻されたことを大変誇りに思う。鐘の音を聞くことで、私たち一人一人が平和のために何ができるのかを考えるきっかけにしてほしい」

と語った。

国連発足から70年となる今年、中川千代治さんの願いを語り継ぐために、鹿太郎さんが代表となり「国連平和の鐘を守る会」が発足。千代治さんの六女高瀬聖子さんが事務局長で、聖子さんから依頼され、私はこの団体の顧問に就任した。

ピースデーに今も国連で打ち鳴らされるこの平和の鐘の意味を噛み締め、そしてもう二度と国家間の戦争が行われないよう、アジアを侵略し、広島と長崎への原爆投下で甚大な被害を受けた日本から、これからも「世界絶対平和」を訴え続けていきたいと思う。


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