夢叶う。

長年の夢が間もなくひとつ叶う。
バングラデシュでのレストラン事業だ。

パートナーであるエクマットラの渡辺くんと共に構想を固め、いよいよ来年2011年2月1日にバングラデシュのダッカでオープンする。やったぁ!ついに!
渡辺くんもブログで書いている。

このレストランの目的はふたつある。
ひとつは現地バングラデシュでストリートチルドレン支援活動を行うエクマットラの収益事業とすること(ユナイテッドピープルも出資して合弁会社となるのでユナイテッドピープルの収益事業ともなる)。もうひとつは将来的には、エクマットラで教育を受けた元ストリートチルドレンの就職先となることだ。元路上生活していた子どもが、このレストランの店員となり、店長となり、やがてはオーナーになる、そんな夢を描いている。

構想から何年経っただろうか。
エクマットラが制作したストリートチルドレンの問題をあつかった啓発映画「アリ地獄のような街」が一段落した今春から、急ピッチに立ち上げ準備を進めてきた。

先月は新会社設立スキームを決め、出店場所を決定し、メニュー決めをするなどの目的でバングラデシュ入りして、大枠はほぼ固まった。エクマットラ幹部と議論した結果、純粋な日本スタイルのやきとり屋ではなく、日本風やきとりが食べられる、日本とバングラデシュの料理がフュージョンしたような店になることになった。

本当は純日本風のこてこてのやきとり屋をイメージしてたんだけどな。店名を「Yakitori SAKURA」にするなど。エクマットラ側のリーダーシップで、バングラデシュのローカル中流層をターゲットにすることになり、価格帯もすっごくリーズナブルなお店になる。やきとりだけじゃなく、多国籍料理も出す。

店名は、「ロシャヨン」。ベンガル語で「化学反応」という意味で、ここで人と人が出会い、いい形でつながり化学反応が起きて欲しいという願いを込めています。来年、バングラデシュ入りの予定がある方は、どうぞダッカの「ロシャヨン」にいらしてください。グラミン銀行と近い、ミルプール地区に出来ます。

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候補地の前で。エクマットラ代表 シュボ、顧問渡辺くんと。

食べものから見る日本の豊かさ

昨日、セカンドハーベスト・ジャパンというNPOを訪問してきました。
賞味期限切れになると、捨てられてしまう食品を、賞味期限前に食品関連企業から分けてもらい、その食品を食べものが必要とされている人たちに配る活動をしています。

この活動には500もの企業が協力し、500の組織を通じて食べものを必要とする人たちに本当は食べれるのに廃棄されてしまっていた食品を分配されています。

さて、この日本は毎年どれぐらいの量の食品を廃棄しているのでしょうか。食べられるのに捨てられている食品は、500万から900万トンといわれているそうです。世界で食糧援助のため配られている食糧が650万トンというから、その量の多さが想像できますね。それだけ売れなかったために、廃棄しているのです。

ところでこの量は、あくまでも食べれるけど捨てられてしまった食品の量だそうで、食べ残しなどを含めた全体の量では、2,000万トンほどの廃棄をしているそうです。興味のある人は調べてみてください。まあ、すごい量ですね。

セカンドハーベスト・ジャパンは、この問題について、「フードバンクの社会化」を目指しているそうです。捨てられてしまう食品を、食べものを必要とする人たちに届けることを一般化するということでしょうね。去年、セカンドハーベスト・ジャパンが取り扱った食品の総量が560トンといいますから、日本で捨てられている食品の総量に対しては、本当にまだまだ微々たるところだとは思いますが、どんどんと広がって欲しいものです。

トイレに100ワットの電球はいらない。

昨日の午前は、お誘いを受け、横浜市立大学で行われたスマナ・バルア医師のご講演を聞きに行きました。バングラデシュで生まれ、1976年に来日後、フィリピンで医師の資格を取得。その後東大医学部大学院でも学び、現在はWHOにご勤務だ。

彼の言葉は心に浸透する。

医師を目指す学生に向かって、「なぜあなた達は医師を目指すのか」と根源的な問いかけをする。このような根源的な質問を次々と投げかける。「なぜ」と。

日本の医師は簡単に処方箋を出す。
頭がいたいと言えば頭痛薬を出す。それでいいのか。
もしかしたら患者は心の悩みを抱えているのかもしれない。
給料が減ったとか、妻と喧嘩したとか。心によりそう姿勢が大切と訴える。

医療機器に多額の費用がかかる病院。
お金を回収するには処方箋を出し、薬を売らなければいけない。

「あなたは商売人として医師になりたいのですか。
それなら、経営学でも勉強しなさい。」

痛快だ。

「なぜ」を私たちはあまり考えずに人生の選択を日々している
のかもしれません。その選択は誰のためにしたのか。「なぜ」?

「わたしはだれなのか?

わたしはどこからきたのか?

どのようにしてここへきたのか?

ここからどこへいくのか?

どのようにしてそこへいくのか?

そこでなににとりくむのか?」 

以前のスマナ・バルア医師の講演録は掲載させて頂いたので、「いのちはレントゲンには写らない」をどうぞご覧ください。

彼が今回の講演の最後に「トイレに100ワットの電球はいらない。」っておっしゃっていたことも印象的だった。まさにそうだ!という瞬間が世の中には至る所にある。

ガンジーは足るを知るの達人だったんだろうな。

尊敬するガンジー。今日の旅のお供に初めて彼の自伝を読んでみます。

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新たな旅の始まり

坂を転げ落ちる石のように。
でも意志のある石が転がり始めた。
止まらないよに、ルートを選び、転がり続ける。

転がり続ける石に苔は付かない。
Like a rolling stone.
大学時代の恩師のひとりの教えだ。

11月3日午後6時、新たなプロジェクト、
UFPFF 国際平和映像祭がいよいよ誕生した。
平和で持続可能な世界を実現するために。

20101103 UFPFF 国際平和映像祭

20101103 UFPFF 国際平和映像祭

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細い、目に見えないほど細い線をたどっていたら
だんだんと、点と点が線になり、線と線がつながり、
面となっていった。

年始にワタミの渡辺美樹さんと出会い、
そのご縁で、フォーバル大久保会長と出会った。
大久保さんが、運命共同体としてUFPFF 国際平和映像祭の
立ち上げを一緒にしてくださることになり、
元国連事務次長の明石康さんとお会いすることもできた。
来月にはやはりUFPFFのご支援をお願いするために
HIS創業者の澤田さんと面会だ。

20101103 UFPFF 国際平和映像祭

垣根を越えて、業界の異なる人たちがどんどんと
つながっていく。「United for Peace」、平和のもとに
日々、エネルギーが結集していくことを実感している。
2011年の初回は本当に歴史に残るイベントにしたい。

今年11月3日の発表会イベントに至るまでの道程は、
全て順調に進んだのではなかった。

今もあるけど

「平和?そんなのやってどうすんの?」
「世界平和なんて実現できやしないよ」
「映画で世界を平和になんてできないよ」

どんどんこんな雑音も聞こえてくる。

当然なこと。そう簡単ではない。
でも突き進む。目的は映画を見せることだけではない。
むしろ目的は世界中の人と人をつないでいくことだ。
平和のもとに。”United for Peace”。

現実的なトラブルもあった。
発表会目前にして、事情がありプログラムを
半分ぐらい作り直さねばならなかったんだ。

ライブの中止。映画の差し替え。写真展の中止。
信じられない不慮の出来事が次々とイベントが目前に
迫っているのに起こり続けた。

諦めないけど、落ち込んでいた時に、
「乗り越えられない試練は神様は与えない」
って、友だちが励ましてくれた。これには本当に勇気をもらった。

プログラムを大幅変更したのに、スポンサーや
メンバーも理解してくれ、何とか11月3日を迎えることが
できた。そして約20人のボランティアチームが大活躍!

20101103 UFPFF 国際平和映像祭

そうして迎えた11月3日、文化の日。
会場は200人の募集枠に255人もの人が詰めかけ熱気で一杯に。
運営者冥利につきるイベントとなりました。

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UFPFFの始まりは、2010年11月3日、あの日、あの場所で
255人の皆さんと運営スタッフ加えると280人ぐらいで
祝ったことは、永遠に記憶に留めておきます。

さあ、新たな旅の始まりです!
スピード上げていきます。

1

「いのちはレントゲンには写らない」

先日、お知り合いになった佐久総合病院 色平哲郎先生より転送許可をいただきましたので、シェアします。スマナ・バルア氏(医師)のすばらしい講演記録です。

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第25回地域と教育の会全国研究集会
2000年8月26日(土) 兵庫県但馬
記念講演 「いのちはレントゲンには写らない」 
スマナ・バルア氏(医師)
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アイデンティティーとは?  

 

私達は足元、つまり、自分のアイデンティティーを忘れています。

なぜ、足元を忘れてしまっているのでしょう?

祖父母が苦労して私の父母を育て、父母も又苦労して私を育てました。

そうして、私は大学生になったのです。

便利な世界にいて、自分の根っこについて考えてみる事を忘れてしまいました。

もう一度、地域の中で生きていくために、足元を見つめ直すべきだ、と訴えたい。

 

今日は、最初にアイデンティティーについてお話します。

 

「わたしはだれなのか?

わたしはどこからきたのか?

どのようにしてここへきたのか?

ここからどこへいくのか?

どのようにしてそこへいくのか?

そこでなににとりくむのか?」 

 

私達はこういった人生におけるもっとも基本的な事柄を忘れているのです。

地域やムラがだんだんと街になって、関係性が希薄になり、

自分たちの足元を見直す事を軽んずるようになりました。

学生達には、このアイデンティティーの詩を書き写していただきます。

そして、くりかえしくりかえし考えてもらうのです。

自分の中に自分の声がある。

その声を聞くチャンスが、なかなか今の若者には無いようです。

しかし、自分の根っこ、アイデンティティーを見つめ直すべきだ、と私は学生達に語っ

ています。

 

私自身のアイデンティティーについてお話します。

私はバングラデシュの貧しい農村に生まれました。

田んぼの中にある、この写真の建物が私の小学校です。

12歳だったとき、近所のお母さんがお産のときに亡くなりました。

私の母も私の姉も泣いていました。

それを見て、「女性がお産で死ぬなんて、とても悲しい事だ。

よし、将来必ず医者になって、お産で女性が死ぬ事のないように村人のために働こう。

と心に決めました。

 

私は今、日本の大学の医学部で教えています。

医学生達は、高校生の時、成績がよかった、勉強がよくできた、ということで医学部を

選んでいる。

なんのためになにをしているのか。

アイデンティティーについて考える習慣がないのかもしれません。

 

 

仏教者の叔父から教えられた事

 

私の叔父は、仏教のお坊さんです。

一族の23代目として、全世界仏教者会議を召集し、世界宗教者平和会議の創設理事を

務めました。

京都の国際会議場にもよく来ました。

今の天皇陛下の結婚式に招待を受けたこともありました。

 

この叔父は私にとても厳しく教えて下さいました。

教えの一つにこんなことがあります。

「活動をお手伝いしたいのですが、どうしたらいいですか?」と尋ねると、

叔父は、「自分のできる所から、始めなさい。」と言ったのです。

自分には何ができるのか?

私は、中学生でした。

「自分の志、心の問題として考えてみなさい。」と、課題を投げかけられました。 

 

叔父さんは、毎朝、子どもたちに声をかけ、世話をしていました。

家族のないこの子どもたちの何人かは皮膚病がひどくなっていて、ひどいにおいがして

、誰も近くによりたがらない状態でした。

しばらくして、叔父さんが私にヒントをくれました。

「自分の体を洗うくらい丁寧に、この3人の子どもの体を洗ってあげなさい。

それは、自分でできる仕事だろう。」 

1週間毎日体を洗ってあげていると、この子どもたちは、すっかり私になついて、

毎朝私を待っていてくれるようになりました。

私は、心の満足を見つける事ができました。

私のはじめてのボランティア体験は、心の満足から始まりました。

 

 

日本では外国人労働者になってしまった  

 

 私の兄は、その頃日本に留学中で、京都工芸繊維大学の大学院生でした。

兄に「医者になりたい」と言いました。

そして少しずつ日本語を覚えて、日本にやって来ました。

日本に来たら、医学部での勉強は専門、専門になってしまっていて、

電気も無いようなバングラデシュの私の村では、使えないということに気づきました。

日本の医療技術は、日本の今の経済状態だからこれでよいのだが、

アジアの他の国でそのままでは使えない、と大変残念だったのですが感じました。

それで、他のアジアの国で勉強したほうがよい、と考えるようになりました。

 

日本では医学部に行かずに、「外国人労働者」になりました。

ほかのことではパイオニア(先駆者)になれなかった私ですが、外国人労働者のパイオ

ニアになることができました。

長野県富士見高原のゴルフ場で働いたり、中央高速道の小淵沢インター建設工事で働い

たりして学費をためました。

牧場で働く事もありました。

働きながら、自分の足元を見る努力をしました。

この頃の私は、このスライドのようにスリムでハンサムでしたよ。

稲刈りの仕事の後で、仲間と一緒にいるところです。

畑でジャガイモを作って、たくさんとれたので、友人に

「人間の先生になるよりも、ジャガイモの先生になったほうがいいよ。」と言われたこ

もありました。 

でも私はあきらめませんでした。

 

自分をさがす旅が始まりました。

私は20歳でした。

人々の中に入って、自分の道を見い出したいものだと考えました。

医者になる以前に、患者さんとして受診する人々の気持ちや生活のありようを、理解し

ておきたかったのです。

トラックの運転助手をしているとき、東京から下関まで11トン・トラックに乗って何

度か往復しました。

この辺り(但馬)も通りましたので、懐かしく思い出します。

 

あるとき、東京で魚を食べたとき、とても美味しいと思いました。

そこで、友達に頼んで友達の親戚の北海道の漁師さんの船に乗せてもらうことにしました。

2月半ばのことでした。

1年で一番寒いときに人々はどの様に魚を獲っているのか、体験させていただきたかったのです。

とても楽しい4日間になりました。

人々の生き方から、いろいろ勉強させていただきました。

 

 

「人々の中へ」

 

これは、中国の偉大な教育者、晏陽初(1893-1990)の詩です。

 

「人々の中へ行き、人々と共に住み、人々を愛し、人々から学びなさい。

人々が知っていることから始め、人々が持っているものの上に築きなさい。

しかし、本当にすぐれた指導者が仕事をした時は、その仕事が完成したとき、人々はこう言うでしょう。

我々が、これをやったのだと。」 

 

教育者の哲学だと思います。

学生が自分たち自身で努力しているのだ、と感じる位、教師は表には出ずに後ろからサポートするのです。

渋谷先生が研究された晏陽初の事蹟を通して、色平(いろひら)先生が渋谷先生方と出会った、と伺っております。

何かのご縁を感じます。

 

 

レイテ島で  

 

フィリピンのレイテ島では助産士として、10年間村々を歩いて総計215人の赤ちゃ

んを取り上げました。

日本では、「地域おこし」「村おこし」などと、美しい言葉を使っていますね。

しかし、村づくりに取り組む事はそうそう簡単な事ではありません。

美しい言葉の中にどれだけ自分たちの志、心根が入っているか、が重要だと思います。

 

レイテ島の学校では、従来は、卒業して医者や看護婦になるとみんなアメリカ合衆国に

行ってしまいました。

あるいは島にではなく、都会の大病院で働くことを好む専門家が多かったのです。フィリピンの教育者たちはこのような「頭脳流出」といわれる事態に対し、何とか取り組まねばならないと考え、

私の学んだ特殊な医学校を設立しました。

村人の推薦で、彼らの信頼を受けた学生が、奨学金をもらって勉強します。

彼や彼女が学校で学んだ知識は、それぞれの村に持って帰って実践します。

学校と地域とを行ったり来たり往復している間に、学生と村人との間に心のつながりができる。

このような社会契約を教育構想として、特徴ある医学校が設立されました。 

従来のように、看護の教育と医学の教育とが別個にではなく、直線的に配列されています。

 

 

助産士から医師へ

 

最初に助産士の勉強を終え、その後看護士、保健士、医師へと階段状に勉強していきます。

それぞれのコースの間には、村で実際の活動に取り組みます。

日本の医学部では、医学を教科書で教えますね。

入学して、教科書の内容を先に覚えるのです。

次に、医療機器の使い方を覚えるようです。

そこでは、人間と人間が出会うことが、後回しにされています。

 

レイテでは、小グループで勉強して、村の患者さんについてさまざまな角度から話し合

いました。

討論しながら勉強するのです。

教科書に書いていない事柄についても、村人の生活から直接学んできて、互いに質問を出し合い、

経験を交換しながら、学んでいくのでした。

 

 

お水の大切さを教える  

 

村の若いお母さん方に最初に教えるのは、お水のことです。

きれいな飲み水はどこにあり、どのように貯蔵して、どのように飲むのかということで

す。

赤ちゃんに予防注射をしたかどうかだけではなく、ここでは(医療者として)薬の処方

や注射をするだけでなく、

人間全体を見渡した教育を目指しています。

健康教育では、お水の問題が中心になります。

きれいな飲み水を大切にする事によって、途上国での病気はその70%が予防可能になります。

しかしこの事の重要性について、なかなか大学の医学部では理解されず、取り組めてお

りません。

 

村々を回るときには、家族全員のカルテを持って歩きます。

又、赤ちゃんを取り上げるために、はさみなどの医療機器も持ち歩きます。

川が多く、橋がかかっていないこのような場所では、このスライドのようにいかだで渡ります。

 

 

戦争を知らない若者達  

 

日本の医学生達を、たくさん受け取りました。

レイテ島は、戦争がひどかった場所です。

戦争が悪かったとか、誰が悪かったということより、日本の若者はまず事実を知るべきです。

多くの日本の若者はレイテ島がどこにあるかさえ知らないのです。

あるとき東大の大学院生がレイテ島はどこにあるかと質問するので、

冗談で、佐渡ヶ島のちょっと北のほうだ、と答えたことがありました。

すると、彼は真顔で地図を見て、そんな島は載っていないと言うのです。

まったく困ったことです。

レイテ島の若者と日本の大学生たちとが出会う場を作ろう、と考えました。

戦争は戦争であったとしても、その事実を知るためにこそ日本の学生達をお引き受けい

ただき、

ホームステイさせていただく活動にも取り組みました。

電気も水道もない村で人々がどのように生きているのか。

アジアの兄弟たちがどんな水を飲んで、どんな食事をして生きているのか、

と想像することができることこそ、日本の若者にとって大事な勉強の機会になるのです。

村の教会を借りて、月に一回の巡回診療に取り組んだ時の写真です。

毎月のように子どもたちを診察しますが、この機会をとらえて若いお母さん方と話をする事ができます。

お水の大切さ、などの基本的なことがらをお伝えします。

井戸のきちんとした管理の重要性、水を沸かしてから飲む事、外から遊んで帰ったら、

手を洗う事などなどです。

病院などのない地域ですので、このように小学校の一室を借りて診察する事もありました。 

 

この道路は、当時日本軍が通った所です。

今はすっかり道が良くなっていますが、こんな道路を4キロぐらい行ったところから

牛車に乗ってやってきたお母さんが2時間後に元気な男の子を出産しました。

自動車などは島にありません。

そういう地域で、夜中であっても赤ちゃんを取上げるために往診するのです。

医学生だった色平先生と一緒に、このような村を歩き回った事がありました。

色平先生は、「僕もこういうところで仕事をしたい。又、暮らしてみたい」と言いました。そして今、二人で同じ仕事をつづけています。

 

 

住民から見た日本  

 

初めて日本の学生達を受け取るとき、村の一人のリーダーが

「自分が生きている間に、日本人の顔を二度と見たくない」と言いました。

日本軍に目の前で自分の父親が殺された、との事でした。

私はチャレンジだと考えました。

何度も何度もこのリーダーのご自宅に足を運び、説得にあたりました。

そして、「是非、一人学生を受け取ってください。」と頼みました。

村でのホームステイの最終日、このおじいさんは、別れ際に泣き出して、

「戦争は戦争でしかたない。これからは、いい友達になろう。」と声をかけてくれまし

。人と人と、街と街と、地域と地域、何をどのように、つなげていくのか。

人間と人間の心をつないでいく作業は私にとって、とても楽しい大切な思い出になりました。

医学の教科書には書いていない重要な事柄です。

 

 

人間として人間の世話をするために

 

バングラデシュは、洪水でとてもひどい状態になります。

水が少なすぎても、多すぎても大きな問題を起こしているのです。

市内の裏街のほうに行くと、とても貧乏な人々がいます。

皆さん、ご存知と思いますが、発展途上国では、金持ちは考えられないほどの金持ちで

す。

とても隔差の大きな社会です。

 

このスライドのような場所、スラムに住む子どもたちの公衆衛生状態や教育はどうなっているのでしょう?

皆さん、想像の翼を伸ばしてください。

 

バングラデシュの医学部で教えていたとき、「村の中からこそ学ぶべきだ!」とアピー

ルしました。

地域の中からこそ学ぶべきだ、と申し上げたのです。

「人間として人間の世話をする」体験は、学生にとってとても大事な思い出になったようです。

若いお母さん方には、家族計画や健康な子育ての方法を教えました。

村おこしには、地域での健康づくり活動が含まれています。 

   

村々にボランティアを養成して、子どもたちのために村を歩き回りました。

医学部で教えながら、地域活動している村人と協力して10本の井戸を掘りました。

きれいなお水の出るところに、人々はみんな集まってきました。

日本でも昔はそうだったかもしれませんね。

 

 

おばあさんの教え  

 

私のおばあさんが、「朝は、早く起きなさい。」と教えてくれました。

私が起きるようになったら、「兄弟たちを起こしてあげる事が、次に大切なことですよ

。」と教えてくれました。

私はそのときには、この教えが十分に、理解できていませんでした。

この教えは、自分がなにかできるようになったら、それを後輩たちに伝えることが次の

仕事になる、という意味です。

おばあさんは私に、「教育」という一生の仕事を与えてくれたのでした。

 

 

ぶつかってみないとわからない 

 

ネパールで、あなたの家から診療所まではどのくらい遠いですか、と聞くと、

「すぐ近くです」と言うのですが、実は歩いて1時間かかるという意味であったりしま

。このスライドはネパールの川です。

誰かが頭を洗い、誰かが洗濯をしていますね。

飲み水をくみに来ている人もいます。

もしかすると上流の方では、おしっこをしている人がいるかも知れないのです。

 

お水は大切です。

村の人々に、「お水は沸かしてから飲むようにしてください。」と、

くりかえしくりかえし根気強く申し上げました。

健康に関する諸問題が、かなりの程度予防できるからです。

バングラデシュの私の村でもそうだったのですが、人間は困難にぶつからないと気づか

ないものです。

村のお母さんたちが私に質問しました。

「バブが小さい時、川の水を飲んでいて元気に大きくなったというのに、

なぜ私の子どもには井戸の水を飲ませたほうがよい、と言うのですか?」と。

あるとき、大きな台風がきて洪水になり、周りの村の子どもたちが下痢になったのに、

井戸のある村の子どもたちは下痢をしなかったという事がありました。

お母さん方はその後でやっと、保健活動の重要性を理解してくれました。

 

数年前、神戸市の高校の先生方に講演した事がありました。

アジア各国の子どもたちの教育について、そしてきれいな飲み水の重要さについて話し

てください、との依頼でした。

私は、お水は大切です、と講演の中で何回か申し上げたのですが、

後ろの方の席の先生が終了後立ちあがって意見をおっしゃいました。

「日本人は馬鹿なものではありません。

一度言えばわかりますよ。お水は大切です。」

と、怒った様子でおっしゃいました。

私は困ってしまいました。

1年ほどして、神戸で大地震があって、その3週間後くらい後で私の自宅に電話があり

ました。

あのときの先生からでした。

 

「バブさん、実は今日は謝りの電話です。

私は去年のバブさんの講演会の後、意見を言わせてもらった者です。

覚えていらっしゃいますか?

今日はバブさんに謝りたい。

私はこれまで毎日お風呂に入っていたのですが、あの地震の後、今日までの三週間、お風呂に入れずにいます。

今、お水が大切である事が本当に理解できました。」

とのお話でした。

私はびっくりして、「先生、お体は大丈夫でしたか?ご家族はいかがでしたか?」

とお尋ねしました。

つまり、人間はなにか困難にぶつからないと、気づかないものだという教えです。

だからこそ、学生達には、「若いうちにこそ、できる限りたくさんの壁にぶつかっておきなさい。」

と強く申し上げています。

 

 

いのちはレントゲンには写らない  

 

中年の男性が患者さんとして診療所へ来ました。

日本のお医者さんたちは「どうしたんですか?」と聞いて、

「頭が痛い」と言うと、「はい、レントゲンを撮ってきて…、異常なし。」 

これで終わりです。

おじさんは、奥さんとけんかをしたのかもしれないし、酒を飲みすぎているのかもしれ

ない。

急に仕事を首になったのかもしれないし、また別の悩みをかかえておいでになるのかもしれないのです。

でも、このようなできごとは、レントゲンのフィルムには写らないのです。

患者さんと医師の対話の中でこそ診断が可能です。

ですから、学生達には、さまざまな壁にぶつかりなさい、たくさんの人間に出会いなさい、と教えています。

人間として、人間の世話をする取り組みに意味を見出して欲しいのです。

 

 

ベトナムの農村で

 

 ベトナムの農村で、地雷のために左足がだめになった人にお会いしました。

彼は木で自分の義足を作って農作業をしています。

一緒にいた奥さんと娘さんは爆発で亡くなりました。

この人は、戦争中の次の爆発では右目をやられました。

そしてさらに、ハンセン病を発病して両手の指先がなくなってしまいました。

彼はこの状態で今も農業を続けています。

彼は、自分を見つめなおす事に取り組んでいます。

米を作って、自分と息子の分の食料をとり、残りのすべてを村の人々に分かち合いなが

ら暮らしています。

彼は、こう私に話してくれました。

 「私は、もし家内と一緒に死んでいたら、なんにもならなかった。

しかし、私は、今生きていることで満足です。」 

彼は地域の人と共に生きていく事の重要性を、私に教えてくれました。

自らのアイデンティティーを見つめ直す事を教えてくれたのです。

現場に行くと、いろいろな人と出会うことがとても勉強になります。

地域の中には、たくさんの教えや財産があるのです。

 

 

日本の小学校で  

 

 日本の小学校でお話をしたときの事です。

私はまず生徒たちに

「今日のお昼ごはんのおべんとうを半分食べて、おいしくなかったので捨てた人はいます

か?」

と尋ねて、手を挙げてもらいました。

そして、アジアの貧しい国で子どもたちが食べ物を分け合って、食べている様子を写真で見せました。

 「あなた達の同じアジアの兄弟たちですよ。いただいたものは大切にして食べましょう。」

 

「次の質問ですよ。

鉛筆を3本だけ持っている人はいますか?

いない。

それでは鉛筆を5本以上持っている人は?

全員ですね。

私が子どもの頃、鉛筆を買うことはできませんでした。

母が竹のペンを削り、バナナの皮に書いて勉強したのです。

こうして字を覚えました。」

そして、スライドでカンボジアの子どもが1本の鉛筆を持って、

有難うございました、と手を合わせている写真をお見せしました。

すると後ろでこの話を聞いていたお母さんが手を挙げて質問しました。

「先生、カンボジアの子どもたちに鉛筆を送りましょうか?」 

 

このお母さんは、残念ながら経験した事がないのです。

ぶつかった事がないのです。

従来の日本の援助のやり方に似ています。

大切な事は、自分の子どもたちに鉛筆を大事に使うことを教える事なのです。

 

 

子どもたちのために  

 

私がいた頃87年のこと、レイテ島に大きな台風が来ました。

私は災害救援組織を作りました。

父母を亡くし、途方にくれている子どもたちのために、安全な場所を見つけようと取り

組みました。

安全な飲み水や食料を確保するために働きました。

 

このネパールの山の中の子どもたちは、学校に行く時間なのに学校に行っていませんで

した。

なぜ、教育の機会が与えられないのでしょうか。

彼らの将来のことを考えねばなりません。

教育の光が不足している所には、光を届けるための努力を傾けるべきです。

 

「我々は、多くの過ちや間違いを犯している。

しかし、最大の過ちは、子どもたちを見捨てている事だ。その生命の泉を無視している事だ。

多くの必要な事は、待つ事ができる。

しかし、この子どもたちには、それができない。

今、彼の骨が作られ、血が作られ、感覚が育っているのだ。

この子に対して私達は、また明日ね、と言うことはできない。

この子の名は、今日なのだ。」

 

 

あいさつからはじめよう

 

 あるロータリークラブで、講演したとき、

「自分のできる事から始めてください。」と申し上げました。

そして、「おはようございますと、声をかけられたことがありますか?

近所の子供たちに毎日挨拶していますか?」とお尋ねました。

ある社長さんは、「知り合いの子にしか、挨拶していません」と、お答えになりました

「では、社長さん、明日から毎朝、子どもたちに挨拶しましょう。」と、私は申し上げました。

 

私の母はあるとき、「目の前の人があなたの鏡なのだ。」と教えてくれました。

私は25年後の日本の国のことをとても心配しています。

あと25年経ったら、日本社会はどうなっているか。

25年経って、こういう国に暮らしていたい、と具体的にお考えになってください。

今、自分たちのできる事は、子どもたちに挨拶をする事かもしれない、と申し上げたい

最初は周囲の人々は、このおじさんはどうしちゃったのかなと疑問に思うかもしれませ

ん。しかし、奥さんと一緒にスーパーに行ったとき、知らない家の子どもが、

「おじさん、こんにちは。」と声をかけてくれるかもしれないのです。

その子のお父さんが、「どうしてあのおじさんを知っているの?」と子どもに尋ねたとき、

「あのおじさんは毎朝、おはようと声をかけてくれるんだよ。」と答えることになるでしょう。

ですから、相手が、おはようと私に答えてくれるかを心配する前に、

25年後、こんな国に私は住みたいものだ、という将来に向けた理想を持ち、

現在において、その実現のための努力に取り組む事こそが、今大切なのではないでしょうか。

すべてをつないでいく「U」

UFPFF 国際平和映像祭
デザイン: 田久保 彬

赤い炎よりも、熱い青い炎。
メラメラと、燃えるが冷静な炎。
そして青はすべての源である「海」の色。

この青い磁石の「U」は、いよいよ11月3日に
発表する、UFPFF 国際平和映像祭のロゴです。

誰もが求める平和。
でも、それは、どこか遠く、ふわふわと中を浮いている。

いざ、危機となれば、急に身近になる。
いや、今、危機の真っ只中の場所がこの地球上にはある。

そんな平和をぐいぐいと、近づけたい。
触れるぐらい、近くに。

青い磁石で、人と人をつないでいく。
異なる考え、異なる国、異なる宗教の人たちを、
平和のもとに結集させたい。

いよいよ、始まります!

UFPFF 国際平和映像祭 (United for Peace Film Festival).

紹介記事: さあ、映画で世界を変えましょう。UFPFF 国際平和映像祭開催。

UFPFF 国際平和映像祭 greenz

開発の先にあるもの

2010/9/25

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「ラダック 懐かしい未来」の発見は出来ただろうか。地方の農家に数日ファームステイ出来れば尚良かったが、ギャッツォのおかげで大雑把に見ることは出来たと思う。

ラダックで最も感じたことは、ラダックが急速な変化の途中にあるということだ。古い価値観と新しい価値観が否応なしにぶつかり、旧来の文化が失われようとしているように思えた。その例をギャッツォの家庭に見ることが出来る。

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ギャッツォの家庭は、ギャッツォの父がチベット仏教のリーダー的存在という伝統的な家庭だ。夕食は家族全員で食べることが決まっており、一番年上のタシお爺さんが席に座るまで、息子のギャッツォは緊張した面持ちで、直立不動の姿勢で両手をお腹の下のあたりに重ねる。身内に限らずラダックでは年寄りへの尊敬が徹底している。どんなことでも年寄りの戯言としてではなく、人生の経験者としての知恵をいただく姿勢で話を聞いている。座る場所も息子のタシと妻のアンモが末席と決まっている。

三世代が一緒に暮らし、食事をする。実はギャッツォの家庭で、この暮らしが消えようとしている。長男はデリーの高校に行っていて、大学のそのままデリーかもしれない。ギャッツォはラダックに帰ってくることを強要しないという。次男のタシの今の夢はエンジニアになること。これもラダックが1970年代に始めて世界に開かれる前だったら、絶対に思い描くことのなかった夢だろう。13歳の彼は、日本の子どもとどこも違うことなく、携帯でゲームもする。

家にはテレビこそないものの、冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロ、ラジオがある。そしてトイレが2つ。ここがポイントなのだが、トイレは旧来式の下に落とすだけのものと、現代式の水洗式トイレの2種類あった。旧来式の方は、土と混ぜ、堆肥として家庭菜園の畑に戻る。エネルギーの循環があるということだ。水洗式はエネルギーが畑に戻らない。この2つが今は共存しているが、水洗式だけになった時に、ラダックにおいてのエコシステムが崩壊し、目に見える変化がさらに起きる時なのかもしれない。

こう分析してみるとラダックも日本と同じ道を進むかに思えてくる。昔からある文化、伝統よりも、メディアを通じて宣伝された個人社会の暮らし、消費を促す消費社会の方に憧れ、やがては物に心を奪われ、貧富の格差が生まれ、競争が生まれ、人の心が失われていく社会への変化だ。

いや、そうじゃないかもしれない。確かに方向としては確実にグローバル化に向かっているが、ラダックには2つの支えがある。ひとつは非営利団体による文化や伝統を守ろうという支えだ。具体的にはLEDeG やTIBET HERITAGE FUND(THF)の活躍がある。これらのNGOの活動が契機となり、ラダックの村、家庭や学校には、太陽光発電システムや小水力発電システムなどが備わっている。見方によっては日本よりも持続可能な社会に向けて、数歩先に行っているかもしれない。

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もうひとつは仏教の支えだ。今回の訪問で、ラダックの人々の生活に仏教が、表現が難しいが、生きた状態で存在していると強く感じた。ラダックでは、仏陀の教えが人々の心の支えとなり、また、コミュニティの中心として存在しているように感じられた。

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これらのことから、ラダックは日本や他の経済的先進国とは違う発展をしてくれるのではないかと期待を持てた。いや、それどころか持続可能な社会のモデルがひょっとしたらここで生まれるのかもしれないとさえ思えた。そうなると、書かれた当時とは時代が違うのでいろいろと違いは出るのだろうけど「ラダック 懐かしい未来」が世界の目指すひとつの道をあらためて示してくれるのかもしれないし、「ラダック 懐かしい未来」よりもずっと最近に完成したドキュメンタリー「幸せの経済学」が道しるべになるのかもしれない。

最後に。ラダックに来てますます日本が好きになった。日本にある豊かな自然。海の幸、山の幸。こんなに恵まれた国はそう他にないのではないだろうか。ラダックは、暮らしやコミュニティこそ豊かだが、高度3,500メートルを超える乾燥地帯であり、冬は何も出来なくなるほど冷え込み、実際ラダック全体が閉鎖状態になる。

今の日本にある言いようのない閉塞感。少子高齢化、増えるばかりの借金、国際競争力の低下。不安材料を挙げたらキリがない。でもひるがえって、日本の地政学的な資産を見直したらどれほどの資源が地方にあることか。日本の未来は、地方の再活性化、活躍にあるとラダックに来て再認識した。

ラダック 洪水被害者のための追憶

2010/09/24
タシお爺さんと昨晩も同じように晩ご飯のお話をした。もう82歳なのに、仏教の歴史を丁寧に教えてくれた。完全に理解できているか不安だが、四つの教義のうち、三つしか日本に伝わっていないと言っていた。それから、なんて無知なんだろうと思うが、チベット仏教には大きくふたつの宗派があり、黄色と赤帽子派に分かれているそうだ。ダライラマ法王は、黄色派。

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1956年、始めてダライラマ法王とパンチェンラマがラダックに来たとき、タシお爺さんはパンチェンラマの通訳をしたそうだ。そう嬉しそうに離してくれた。その後、ラダックの仏教協会の代表をしていた時には、ダライラマ法王がラダックに来る時の責任者として宿泊地や食事の手配をしていたとも。へミスというモネストリーの美術館のラダック語、英語の対訳をしたのもお爺さん。タシお爺さんとの夜の会話は貴重な経験となった。

あと、昨日はTIBET HERITAGE FUND(THF)の後、ギャッツォの案内でPADMA KARPO INSTITUTEを訪問。The 12th Gyalwang Drukpaにより設立された学校で、設計は無償でオーストラリアのシンボルとなっている劇場をデザインしたARUNが担当したそうだ。耐震設計で、太陽光発電のみで電気をまかなっている。ゴミのリサイクルも徹底しているし、先進的な学校だった。英語教育を3歳から行っていることにもまた驚きだった。日本よりもよい教育環境なのではないだろうか。

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それからギャッツォのすすめで、へミス(HEMIS)とティクセイ(THIKSAY)寺院を訪問した。へミスでは日本や中国でもお目にかかれそうもない仏像が多数展示されていた。過去にインドのマハラジャの侵攻があった際、山の奥に隠れているへミスはマハラジャに知られることなく守られたという。へミスは毎年有名なフェスティバルが開催されている。

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ティクセイではタイミング良く僧侶たちのお祈りを聞くことが出来た。ティクセイからの眺めは最高に美しかった。眼下にはインダス川が流れ、収穫が終わったばかりの畑が輝いていた。

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ティクセイのチベット僧侶

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*    *    *

今朝は、アラームが鳴る3分前ぐらいにギャッツォがドアをノック。悔しい思いをしつつ起床。ギャッツォとアンモ(奥さん)と最後の朝食。今度は学生を連れてくるよと約束して出発した。間もなく、ラダックは厳しい冬を迎える。

朝7時ジャストに空港着。カシミール地方が緊迫しているためか、何人もの兵士が厳重に警備をしている。セキュリティーチェックを通過。チェックインを済ませるが、便が遅れているという。待つこと3時間以上。結局この日の便は欠航だった。Kingfisher、初利用で復路欠航。ローコストキャリア(LCC)ってこんなもんなのだろうか。明日はちゃんと乗りたい。

ラダックの町に仕方なく戻り、単車を借りてツーリングしようとか、いろいろ試みるがすべて失敗。単車は1日500ルピー(約1,000円)で借りれるんだが、スタートした途端にクラッチが壊れ断念。今日は何をやってもダメ。逆にこれも試練だとか、楽しもうとか、思い直したら今度は良い事がいくつも起こった。デリーから赴任してきたばかりの軍人と友だちになり、今後3~4年ラダックにいるから何か問題があればすぐ連絡してくれと言われたり、昨日訪問したTIBET HERITAGE FUND(THF)の代表、アレクサンダーさんと町で遭遇し、ちょうど今晩パーティーがあるからと、THFのパーティーに誘われたりと。

でも、飛行機が欠便してラダックに残った理由は別にあったのかもしれない。夜、アレクサンダーさんのパーティー会場から帰る途中、寺院の前にロウソクの火を手にした人だかりがいた。若者から老人まで、皆が僧侶の説法を聞いたり、祈ったりしている。何の集まりかと聞くと、洪水被害者のために集まったのだという。

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大勢がバスや車で集まり、犠牲者のために集まっていたのだった。バスの屋根の荷台に乗るほど大勢の人が、追憶のために集まっていたんだと知って、涙が溢れそうになった。そうだよな、洪水からまだ一ヶ月ちょっとだもんな。親戚や友だちを亡くした人はこの中に大勢いたんだろうな。彼らがこうやって寺院に集まってくることを見て、ラダックの人々の中心には信仰が、仏教があるんだなとしみじみ思った。仏教が人々の支えになっていて、コミュニティの中心にあるんだ、ここでは。

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ラダックでみつけた、ダライラマ法王の言葉

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PEACE
We cannot achieve world peace without first achieving peace within ourselves… Inner peace. In an  atmosphere of hatred, anger, competition and violence, no lasting peace can be achieved. These negative and destructive forces must be overcome by compassion, love and altruism, which are the essential teaching of the budda.

高山病、再び。

2010/09/23
高度に順応したはずなのに、何度も頭痛で起こされた。
今朝は始めての寝坊。不本意ながらギャッツォに起こされてしまった。

「ギャッツォ、毎日何時間寝てる?」
「6時間かな?」
「へぇ。じゃあ昨日は何時に寝て、何時に起きた?」
「夜10時に寝て、朝7時に起きたかな」
「それって、9時間じゃん(笑)」

なんて茶化していたので、ちょっと気恥ずかしかった。

昨晩は晩ご飯の後、ギャッツォと話し込んだ。

「俺を日本に連れていってくれ。何でもするよ」
「え?本気?」
「うん、日本の温泉が見たいんだよ」
「は?なぜ温泉なの?」
「実はレーに温泉が湧いているんだが、こっちの人にはどんな風に湯船をデザインしたらいいかとかのアイデアがなくて。日本に見に行きたいんだ」

ラダックに温泉があるのか!と、やや興奮。
ギャッツォをパートナーに、ラダックで温泉開発もいいかもなどと妄想してしまった。よくよく聞けばラダック中心部から車で3時間かかるそうで、軍からの許可なしには入れないそうだ。数年後には自由に行き来できるようになると言っているがどうなることか。次回訪問時には行ってみよう。

ラダック最終日の今日は、ギャッツォが務めているTIBET HERITAGE FUND(THF)の仕事現場をいくつか視察した。この団体は1996年にドイツ人建築家、アンドレ・アレクサンダーさんによって設立された団体で、ドイツ大使館などからの資金により運営されているTHFの目的は、歴史的建造物の保存を通じ、弱体化したローカルコミュニティーや文化の保全で、これまでにチベットのラサで80ほどの建物のリノベーションを実施し、最近ではラダックでの活動に力を入れている。2008年からは地元政府からの依頼で”the Central Asian Museum in Leh”の建設を依頼され、現在この建設に奔走している。

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THFは毎年4月~10月の間ボランィテア募集をしており、建築関係者(建築家、学生)、そして現在はWebデザイナーも募集している。興味のある方は、ユナイテッドピープルHPのコンタクトフォームからご連絡ください。

今日の残りの時間は、ラダックから少々地方に行き、学校やモネストリーを訪問します。

ラダックの風景

ラダック 洪水被害の現場へ

2010/09/21
高山病だろう。夜は何度も頭痛で起こされた。脳みそが締め付けられるような痛みだった。事前にネットで学んでおいた対処法をやってみる。口をすぼめて二酸化炭素が完全に出るまでゆっくりと吐く。空になった肺にたっぷりと酸素を取り込む。スポイトの要領で。2秒ほど息を止め、胸に力を入れる。そして、ゆっくりと吐く。こうすると確かに脳まで酸素が届き、ちょっと痛みが和らぐ。そして寝てみるが、また痛みで起きる。

寝不足で起床。立つと痛みがズキンと来る。高山病の治療は、最悪下山するしかないとある。明日にもデリーに飛ばないとまずいかもしれないと考えながら、対処法を調べると、アスピリンが効くとある。ギャッツォにアスピリンはないかと聞くと、あるよとディスピリンが出てきて笑えた。まあ、似たようなもんだろうと飲み、今日がスタートした。

今日は、僕を案内するためにギャッツォが働いているNGOを休んでくれた。親戚のドライバーが一日一緒に同行してくれることになった。例によって料金は先には分からない(笑)。

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まず向かったのは先月の大雨による洪水被害にあった場所だ。一通り案内してもらった。訪問先の家のひとつはギャッツォの従兄弟の家で、一階のほとんどが土砂で埋まり、ちょうど土砂を外に出す作業をやっているところだった。

8月の洪水による被害者は、死者が約200名。行方不明者は400名という。雨のあまり降らない乾燥地帯のラダックで、大雨でこのような洪水が起こったことは歴史上始めてのことだという。これも地球規模の温暖化の影響なのかもしれない。

近所の村の人たちが、特に女性たちが、復興のためボランティアに励んでいたことが印象的だった。被災家族が一時的に暮らすテント村にも訪問した。すべてを失い、ギャッツォに泣きつく女性がいた。何も出来ない自分がいて虚しかった。ラダックは10月以後急速に寒くなる。テントではなく冬を越せる住居の建設が急がれる。早期の復興をお祈りします。

その後、孝道山から紹介して頂いたご友人で、ラダックで女性の尼さんたちのための支援、仏教教育と一般人のためのクリニックを運営しているパルモさんにお話を聞きにいきました。パルモさんが、自分たちはソーシャルワーカーとして活動しているとおっしゃっていることが印象的だった。仏教とは悟りを得るために修行をするものと思っていたが、それは先入観だったのかもしれない。

パルモさんのグループは、チベットから伝わった伝統的医療を学び、一般人のためのクリニックを一年前から運営している。実践的仏教というんだろうか。大変感銘を受けた。

パルモさんからの教えをメモ書きしておく。

人間の心は猿の動きのようなもの。毎秒どこかに飛びたがっている。その心をコントロールして、自分が行かせたいところに行かせられるように修行しなければいけない。

人は皆、怒りや悲しみなどの心の動きがある。もし、誰かにネガティブな、攻撃的な言葉を向けられたら、それを感じ取り、盾を用意しなさい。何をするにしても批判はつきもの。どんな批判や、人の悩みも受け入れられるようになったら、あなたはずっと幸せでいられます。

毎日15分間でいいから、メディテーション(瞑想)をしなさい。テレビを消して、携帯の電源を切るんです。静寂の中、あなたの心の声を聞きなさい。その中には、無くさなければいけない毒もあるかもしれません。

お酒や名声や物欲など、一時的にしか心を満たしてくれないことからは距離を起きなさい。それらは一時的には良くても、すぐに効果が失われます。そういったものは概して塩の味がするしょっぱいもので、後味の悪いものです。何が本当にあなたに必要か、本質を考えるのです。

パルモさんメッセージ

明日は、ヘレナが始めたNGO、Ledegを訪問する予定です。

2010/09/22
「ディスピリン」の効果か、今朝は頭痛が和らいでいる。
昨晩もギャッツォの家族全員と一緒に晩ご飯をいただいた。息子のタシ、タシお爺さん、そしてギャッツォと奥さんのアンモ。庭で採れた野菜を中心にオーガニック料理を出してくれる。どれも美味しく体が内側から綺麗になっていく感じがする料理だ。

夕食時にタシお爺さんの教えを聞くことが習慣になってきた。昨晩はこんな話があった。

「ある時、狩人が森に入っていき、森の中で動く動物に向けて一本の矢を放った。その矢は命中したが、その矢を受けたのは人間の女性だった。狩人はあわてふためいている。これを見た人がいる。彼は何をすべきだろうか。すぐ女性に駆け寄って、矢を抜いて止血することだろうか。それとも近所の人に「犯人を見た」とか警察に犯人を連行することだろうか。答えは明らかでその女性に駆け寄り手当をすることだ。しかし往々にして人間はすべき行動をしないことがある。

仏陀の教えでは、余計な心配をせずに今起きていることに集中しなさいとある。たとえば神が存在するしないということを心配するよりも、今を大切に生きるのです。人間は貧困家庭で生まれることもあるし、裕福な家庭で生まれることもある。早死するものもいれば、長生きするものもいる。これらは前世の行いと関係しているのです。今の社会や他人を非難するのではなく、自分の人生に責任を持ち、大切に生きることが重要です」

タシお爺さんが床に就き、ギャッツォと明日の予定について話していると、「王様に会うか?」という。

「王様と友だちなんだよ。それにアンモ(妻)は王様と親戚なんだよ」

ということで王様に会えるかもしれない。
ギャッツォは今日も僕のために半休してくれた。明日は全休。こんなに休んで大丈夫なのだろうか。

* * *

朝から調子は絶好調。ようやく高度に完全に順応できたみたいだ。
今朝はギャッツォが午前中、仕事のため、午前中は一人で行動した。ヘレナに訪問を推薦されていた、LEDeG(Ladakh Ecological Development Group)にまずはアポなし訪問。LEDeGは1981年に活動を開始している。現在のスタッフ数はおよそ50人。これまでに数々の賞を受賞。ダライラマ法王の訪問も受けている。代表のハスナインさんに会いたいといと、あいにくラダックに帰ってくるのが僕がラダックを離れる日で会うことが出来なかった。

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スタッフにLEDeG施設内を一通り案内してもらった。LEDeGは、伝統的な文化を守りながらエコロジカルでサステイナブルな開発を推進する団体。太陽光エネルギーを使った発電やヒーティングシステムや小水力発電システムなどをラダックの村々に導入を進めている。また、地方でも暮らしていけるよう家庭の収入を増やすための女性を対象とした職業訓練も行っている。帽子、服、バッグなどの制作指導をして、それらをLEDeGが買い上げ、LEDeGが運営する直営店で売るシステムになっている。

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ダライ・ラマ法王の訪問を受け、案内するヘレナ。

LEDeGの後はWomen’s Alliance of Ladakhを訪問。この団体はラダックの伝統文化の維持、保存を女性をサポートすることで実現することをミッションとしている。ここは特にいいインプットはなかった。

この日はその後、ANCIENT PALECE、故宮殿とでも言おうか、を訪問。そして、Stok Palece Museumへ。この美術館に坂本龍一さん写真が飾られていた。有名な日本の作曲家とだけ説明されていた。この美術館の側に王宮があるのだが、残念ながら王様は不在で会うことが出来なかった。

最後にSECMOLという団体を訪問した。SECMOLではオルタナティブな高校で、高校の試験に失敗したいわゆるドロップアウトした高校生ぐらいの生徒が40名ほど共同生活している。英語教育が受けられることと、持続可能なライフスタイルを学べることが特徴だ。全施設のエネルギーは太陽光発電でまかない、大型のソーラークッカーを備えている。広大な土地で農業も生徒たちがやっており、育った野菜を使って料理するのも生徒だし、牛の面倒を見るのも生徒。必ず何かの責任を任され、社会人としても成長する場になっている。1年から2年学んだ後、もとの村に戻ることになっている。

SECMOLはラダックの町から車で崖を縫うようにして50分ぐらい行った僻地にある。ここまで隔離されていると、社会から取り残されて、社会順応が逆に出来なくなるのではないかとも心配になった。それを意識してか、毎晩必ずラダックの地方ラジオを聞く時間があり、誰かが聞いたニュースについて発言しなければならない時間があるそうだ。また、このような隔離された場所だが、世界各地からボランィテアが集まっており、居ながらにして世界とつながる環境ともいえる。インターネットもつながる。SECMOLを案内してくれた学生が、わずか1年で英語をマスターしていたのには驚いた。英語を学びたいなら、ここに1年ボランティアすれば習得出来てしまうかもしれない。